高知県立美術館では、国内外の約440名の作家による41,000点以上の作品を収蔵しています。
以下では主な収蔵作家についてご紹介します。
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石元泰博・コレクション
石元泰博氏は高知ゆかりの写真家です。
高知県立美術館では石元氏の生前から逝去した後にかけて、ご本人とご遺族から段階的に作品等の寄贈を受けました。そのコレクションはプリント34,753枚に加え、ネガフィルム約100,000枚、ポジフィルム約50,000枚、その他資料を含み、公立美術館の有する一人の作家のコレクションとしては類を見ない質と量を誇ります。
石元泰博
いしもと・やすひろ
1921-2012(大正10-平成24)年
1921年6月14日、アメリカ・サンフランシスコに生まれる。3歳のとき両親の郷里である高知県に戻り、39年高知県立農業高校を卒業。同年、単身渡米するが、間もなく太平洋戦争がはじまり、収容所生活を経験する。終戦後は、シカゴのインスティテュート・オブ・デザイン(通称、ニュー・バウハウス)で、写真技法のみならず、石元作品の基礎を成す造形感覚の訓練を積む。その後、桂離宮のモダニズムを写真により見出した作品で高い評価を受ける。丹下健三、菊竹清訓、磯崎新、内藤廣など日本を代表する建築家の作品を多く撮影していたことでも知られる。
上 《セルフ・ポートレート》 1975(昭和50)年 ゼラチン・シルバー・プリント
下 《シカゴ こども》 1959-61(昭和34-36)年 ゼラチン・シルバー・プリント
©高知県,石元泰博フォトセンター
マルク・シャガール・コレクション
高知県立美術館は開館年の1993年に、実業家の大川功氏から800点を越えるマルク・シャガールの版画の寄贈を受けました。
これを契機に当館では以降もシャガール作品の収集を続け、現在では油彩画5点、版画約1,200点からなる国際的にも注目されるシャガール・コレクションを形成しています。
マルク・シャガール
Marc Chagall
1887-1985年
帝政ロシア(現在のベラルーシ共和国)のヴィテブスクのユダヤ人家庭に生まれる。1911年から14年までパリに住み、詩人サンドラール、アポリネールらと親交を結ぶ。キュビスムの空間的効果、ドローネーらの鮮烈な色彩表現に影響を受けつつ、子供の頃の記憶からイメージを引き出し、独自の幻想的なスタイルを展開した。14年、ベルリンのシュトゥルム画廊で個展を開催。その後も同画廊と関係を保ち、ドイツ表現主義の運動に影響を与える。二度にわたる世界大戦の戦火や、ナチ政権によるユダヤ民族迫害、アメリカへの亡命、制作の霊感の源であった愛妻ベラの死去など、さまざまな苦難を乗り越えて画業を深めた。
《オルジュヴァルの夜》 1949年 カンヴァスに油彩
© ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo,2023, Chagall ® C4198
表現主義の作家
開館以来、当館では表現主義及び新表現主義(ニュー・ペインティング)の作品の収集を続けてきました。ここでは当館が所蔵する「ドイツ表現主義」の代表的な作品を中心にご紹介します。
20世紀の前半に活動を繰り広げた先鋭的な美術運動「ドイツ表現主義」は、「ブリュッケ」と「青い騎手」というふたつのグループを中心に興り、国立学校バウハウスやヴィ―ンの芸術にまで展開しました。
ヴァシリー・カンディンスキー
Wassily Kandinsky
1866-1944
モスクワに生まれる。1897年からミュンヒェンに留学。同地で「ミュンヒェン新芸術家協会」を設立、これをもとにマルクらと1911年に「青い騎手」を設立する。この時期最初の抽象絵画を制作。13年にベルリンで「第1回ドイツ秋季サロン展」に参加。22年にヴァイマルのバウハウスに召喚され、「形態のマイスター」として指導にあたる。33年にフランスへ亡命する。晩年はパリで制作した。ヌイイで没。
《コンポジション》 1922年 リトグラフ
パウル・クレー
Paul Klee
1879-1940
スイス、ベルン近郊のミュンヒェンブーフゼーで生まれる。ミュンヒェンで1912年に「青い騎手」に加わる。14年にチュニジアを旅行し、以後新たな色彩表現による独特な作品を制作。20年から31年までバウハウスのマイスターを務める。31年にデュッセルドルフのアカデミーの教授に迎えられる。ナチの政権奪取に伴い政治的に教職が制限され故郷に帰還、病苦のなかで制作を続けた。ロカルノ近郊ムラルトで没。
《故郷》 1929年 カンヴァスにマウントした紙に油彩、水彩
マックス・ペヒシュタイン
Max Pechstein
1881-1955
ドイツのツヴィッカウに生まれる。1900年にドレスデンに移住し同地の美術アカデミーで学ぶ。06年に「ブリュッケ」に加入。08年にベルリンに移住。12年に規約を破ったという理由で「ブリュッケ」から除名される。23年にはプロイセン美術アカデミーの会員となるが、ナチ時代には「退廃芸術家」として迫害される。作風は表現主義から徐々に装飾的になり、穏健なアカデミスムの画家として成功している。ベルリンで没。
《森で》 1919年 カンヴァスに油彩
ジョージ・グロス
George Grosz
1893-1959
ベルリンに生まれる。ドレスデンで美術を学ぶ。第一次世界大戦の末期にはダダイストの仲間に加わり、未来派の影響を受ける。1923年頃から様式を具象化させ、「新即物主義」への傾向を見せ始める。33年、アート・ステューデンツ・リーグの勧誘により、長らく定住していたベルリンを去り、米国ニューヨークに移住、教職に就く。37年に米国の市民権を取得。その一方、ドイツ本国では「退廃芸術家」の烙印を押され、38年には国籍を剥奪される。制作の後期では主に寓意的な表現を好んだ。59年、故郷ベルリンに一時帰国中、飲酒による事故で死去した。
《緑衣のロッテ》 1926年 カンヴァスに油彩
高知県ゆかりの作家
高知県内唯一の県立美術館として、高知の美術の収集、保存は当館の大きな使命のひとつです。近世から現代にいたるまでに活躍してきた高知県にゆかりのある作家たちの作品を継続的に収集しています。
中山高陽
なかやま・こうよう
1717-1780(享保2-安永9)年
江戸中期の文人画家、書家、漢詩人。高知城下堺町の商家・阿波屋の次男として生まれる。絵は京都の南画家、彭城百川(さかき・ひゃくせん)に学んだと伝えられる。42歳以降は江戸に出て活動し、のちの「関東南画」の先駆者と目される。人物画を最も得意とし、中国人物を独自の解釈で描いた。江戸での弟子、渡辺玄対(わたなべ・げんたい)は谷文晁の師である。著作も多く、紀行文として『奥游日録』、『熱海紀行』等を残し、画論、詩論として『画譚雞肋』、『観鵞百譚批考』を刊行している。
《酔李白図》 1767(明和4)年 絹本彩色
弘瀬洞意/絵金
ひろせ・とうい/えきん
1812-1876(文化9-明治9)年
高知城下新市町生まれる。通称、金蔵。土佐で狩野派を学び、江戸に出て土佐藩御用絵師の前村洞和に師事し洞意号を授かる。土佐藩家老家・桐間家の御用絵師となるが、やがて「贋作事件」で失脚し、町絵師に下ったと伝えられる。絵金が様式を確立した「芝居絵屏風」は、地元の祭礼に奉納され、祭りのたびに飾る文化が現代にまで受け継がれる。「絵師金蔵」を略した通称「絵金」は、絵師全般を指す言葉としても流布した。
絵金派 芝居絵屏風《太平記忠臣講釈(七条河原惣嫁宿)》 制作年不詳 紙本彩色
河田小龍
かわだ・しょうりょう
1824-1898(文政7-明治31)年
高知城下浦戸町に生まれる。土佐で南画家、島本蘭渓(しまもと・らんけい)に師事したのち、京都に出て狩野英岳に狩野派を、中林竹洞に南画を学んだほか、アメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)の取り調べにあたり、その絵入りの記録『漂巽紀畧』を記した。絵金とは師弟に近い関係にあり、芝居絵屏風も手掛けるなど、幅広い画風で知られる。端正で着実な筆致による人物画や、明治時代の土佐の風物を多く描いた。当時の高知にあって後進の育成にも尽力した。
《美人図》 1854(安政1)年 絹本彩色
山本昇雲
やまもと・しょううん
1870-1965(明治3-昭和40)年
長岡郡後免に生まれる。土佐の絵師、柳本洞素および河田小龍に学び、大阪での仕事を経て、1888年に東京に出て、南画家、滝和亭に師事する。雑誌『風俗画報』、『東京名所図会』の挿絵画家「松谷」として一躍有名になり、報道画家として活躍したほか、明治末期において江戸期から続く分業制の多色刷り木版のシリーズを多数手がけた。日本画家として文展に出品するほか「土陽美術会」の会員としても活躍した。モダンで可憐な女性像の描写に長じたことで知られる。
《今すがた すずし顔》 1909(明治42)年 多色刷木版
石川寅治
いしかわ・とらじ
1875-1964(明治8-昭和39)年
高知市に生まれる。上村昌訓に絵の手ほどきを受け、1891年に上京、小山正太郎の不同舎に入る。93年、明治美術会の第5回展に初出品して以降、太平洋画会や文展など展覧会を舞台に洋画家として活躍した。1902年から04年にかけて欧米を旅したほか、若いころから日本はもとより台湾、中国、琉球など各地で写生旅行を行い、多数のスケッチを残している。木版画にも才能を発揮し、彫師、摺師との協業でモダンな女性像を描いた《裸女十種》は寅治の代表作である。太平洋戦争中は南方へ派遣され、戦地を記録するスケッチや戦争画を描いた。
《凝視》 1931(昭和6)年 カンヴァスに油彩
山脇信徳
やまわき・しんとく
1886-1952(明治19-昭和27)年
高知市に生まれる。1907年第1回文展に入選、白馬会展にも出品を重ねる。09年、印象派に学んだ代表作《停車場の朝》が第3回文展で褒状を受賞、バーナード・リーチや高村光太郎らに絶賛され「日本のモネ」と称された。25年渡欧しパリを拠点に活動。29年の帰国後まもなく帰郷し、以後亡くなるまで高知市を拠点として活動、高知県展の創設に携わり審査員を務めるなど郷土の美術振興に努めた。
《夕焼の日本橋》 1917(大正6)年 カンヴァスに油彩
土方久功
ひじかた・ひさかつ
1900-1977(明治33-昭和52)年
東京都文京区に生まれる。1919年、東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科に入学、24年に卒業。29から42年にかけて、ミクロネシアのパラオ諸島に渡り、現地人と生活を共にしながら木彫や絵画を制作したほか、島内の各学校で彫刻を教える。滞在中にパラオの島々やサテワヌ島で伝統芸術、神話や伝説の採集など民族調査を行い、当時の南洋を知るうえでも貴重な資料を残している。
《島の伊達少年》 1965(昭和40)年 白銅
今西中通
いまにし・ちゅうつう
1908-1947(明治41-昭和22)年
高岡郡に生まれる。1928年に上京し川端画学校に学ぶ。当初、フォーヴィスム風の筆致で風景や静物を描いていたが、川口軌外を通じてキュビスムの造形思考を学び、34年頃から形態を幾何学的に単純化して描いた室内風景や静物、裸婦のデッサンや油彩画に取り組む。35年、高知県公会堂で個展を開催。晩年はセザンヌを参照した具象画に移行した。
《みどりの静物》 1940(昭和15)年 カンヴァスに油彩
高﨑元尚
たかさき・もとなお
1923-2017(大正12-平成29)年
香美市に生まれる。1949年、東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科を卒業。54年、モダンアート協会新人賞受賞。62年、濱口富治の「新象土佐派」と合流し、「前衛土佐派」を結成。63年、正方形に切り取った白いカンヴァス片を特徴とする、自身の代表的シリーズ《装置》を発表する。66年、第1回ジャパン・アート・フェスティバル(ニューヨーク)への出品を機に、具体美術協会の会員となる。高知県展、高知市展へと出品を続ける傍らで、国内外の展覧会に出品し活躍した。95年、高知県文化賞受賞。長年土佐中学・高等学校の教諭を務めたことでも知られた。2017年には当館で個展を開催した。
《装置》 1994(平成6)年(1965年の再制作) 板、布にペンキ
岡上淑子
おかのうえ・としこ
1928(昭和3)年-
高知市に生まれる。のちに東京に転居し、1950年頃、文化学院デザイン科在学中から進駐軍が残した洋雑誌を切り抜き、コラージュ作品の制作を始める。53年、タケミヤ画廊で個展開催、「抽象と幻想」展(東京国立近代美術館)にも出品するが、57年の結婚を機に制作から遠ざかる。67年、高知市に転居。2000年に44年ぶりの個展を東京の第一生命南ギャラリーで開催。以後、徐々に再評価が進み、02年には米国ヒューストン美術館、18年には高知県立美術館で個展を開催した。
《招待》 1955(昭和30)年 紙にコラージュ
奥谷博
おくたに・ひろし
1934(昭和9)年-
宿毛市に生まれる。1958年、第26回独立美術協会展に初出品・初入選、以後出品を続ける。59年、東京藝術大学油画科卒業。67年、第1回文部省芸術家在外研修員となって1年間、欧州各地で研鑽を積む。国内外の数多くの展覧会に出品し、83年、第33回芸術選奨文部大臣賞受賞。85年、紺綬褒章受章。92年には『奥谷博画集』を出版。2001年、東京藝術大学油画客員教授となる。17年、文化勲章受章。18年、高知県名誉県民となる。
《画家と鴉》 1974(昭和49)年 カンヴァスに油彩
合田佐和子
ごうだ・さわこ
1940-2016(昭和15-平成28)年
高知市に生まれる。1959年に武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)本科商業デザイン科に入学。在学中に路上で拾い集めた廃品によるオブジェの制作をはじめ、65年に初個展を開催。71年、ニューヨークの道端で銀板写真を拾ったことをきっかけに、写真を見ながら油絵具で絵画を描きはじめる。69年からは唐十郎主宰の劇団「状況劇場」や寺山修司主宰の「天井桟敷」の舞台美術・宣伝美術を継続的に担当した。80年代以降はポラロイドやパステル鉛筆画、ヴィデオなど、様々な媒体で作品を制作・発表。幻と見まごうばかりの現実、超現実、ふしぎな類似といったテーマに一貫して関心を寄せ、制作のインスピレーションの源とした。
《異母兄弟》 1975(昭和50)年 カンヴァスに油彩
日和崎尊夫
ひわさき・たかお
1941-1992(昭和16-平成4)年
高知市に生まれる。1963年、武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)第二本科西洋画専攻卒業。翌年帰郷し、版画家の恩地孝四郎の著書『日本の現代版画』の影響から独学で木口木版画の制作に取り組む。66年、日本版画協会展で新人賞受賞。翌年には同展で版画協会賞受賞。68年頃、強度のノイローゼに悩まされるなかで『老子』や『法華経』を読み、「KALPA(劫)」の概念に出会って深い感化を受け、独自の生命観、宇宙観を秘めた《KALPA》のシリーズに着手。77年には木口木版作家たちによるグループ「鑿の会」を結成。90年、高知版画協会を設立し、高知国際版画トリエンナーレの創設に携わった。
《KALPA-夜》 1972(昭和47)年 木口木版